第20回定期演奏会


チェコと日本のかかわり


☆ 国際音楽祭ヤング・プラハについて
 毎年夏の終わりにプラハとチェコ各都市で開催。世界の若者に芸術の国に於ける素晴らしい音楽体験と国際交流の場を提供している。開催資金の多くを日本企業の協賛に依り、日本・チェコ実行委員会のボランティアにより運営されている。日本からは今まで、昨年の上原彩子(ピアノ)大萩康司(ギター)を始め梯剛之(ピアノ)神尾真由子(ヴィオリン)、神田めぐみ(トロンボーン)他沢山のホープが参加し、その後世界の檜舞台で活躍中。例年合唱団も参加し好評を博している。 皆様どうぞこの素敵な音楽祭継続にご理解とご協力を!

☆ テレジン市について
 第2次世界大戦時、アウシュヴィッツへの中継所とされたテレジン強制収容所では、ナチスがユダヤ人絶滅政策をカモフラージュする目的で、収容所内での文化活動を容認し、プロパガンダに利用した。多くの音楽家たちはアウシュヴィッツに送られるまでの短い最後の時を惜しむかのように、過酷な環境の中活発な活動を行った。収容所内では多くのコンサートが開かれ、特にH.クラ−サ作曲の子どもの為のオペラ「ブルンジバール」は収容された子供達によって2年ほどの間に55回も上演された。そんな中、若い作曲家・ピアニストのG.クラインのパワーフルな活動は、絶望に喘ぐ人々の心に人々に勇気と希望を与えたという。
 社会主義時代が終わり、やっと明らかになったテレジンの歴史は、日本ではここ数年、収容所内で子供達によって描かれた沢山の絵や、子供達が密かに発行していた雑誌「ヴェデム」の日本語訳(林幸子著)などで紹介されその感動的なエピソードが話題になり、さらに2000年の「ブルンジバール」初演は人々に深い感動を与えた。ピアニスト志村泉氏の演奏活動に端を発した募金活動で、テレジンにはピアノが贈られるなど、心暖まる交流が続いている。国際音楽祭ヤングプラハの演奏会も数年前より定例となり、日本の合唱団が毎年招かれている。しかし昨年の大洪水によって貴重な歴史的遺産は大きな被害をもたらされ、いま海外からの援助が待たれている。

(国際音楽祭ヤング プラハ実行委員会日本代表 中島 良史)

チェコの合唱音楽の流れ


 13世紀前半、ボヘミア(チェコ)最初の合唱団として、プラハの聖ヴィート大聖堂に少年合唱団「ボニ・プエリ」ができた。15世紀はじめのフス戦争当時、歌われていた軍団のコラールや、カレル四世時代の学生歌などは斉唱だった。ポリフォニーがネーデルランド樂派の作曲家たちによりプラハにもたらされたのは、芸術の庇護王ルドルフ二世時代になってからで、ガルスの5声の合唱曲「主の昇天」が有名である。
 しかし1620年の晩秋、新教を奉ずるボヘミア貴族軍が、ヨーロッパ全土から攻め上がった旧教徒軍に、プラハ郊外のビーラホラで惨敗し、宮廷顧問官だった作曲家ハラントは処刑され、8声の二重合唱曲「声をひそめて」の作曲者だったカンパヌス=ヴォダンスキーは自殺した。これに続く30年戦争の結果、多くのチェコ人音楽家が国外に亡命し、イエズス会修道院での教会音楽が主流をしめていた。
 18世紀には、1723年カール六世のプラハ戴冠式用に作曲された、ゼレンカのカンタータ「聖ヴァーツラフのメロドラマ」に代表されるように、V・J・コプシヴァ、ブリクシ、コジェルフ、A・ヴラニツキーらのミサ曲などが巾を聞かせ、1770年にはオロモウツに大司教後援の音楽団体コレギウム・ムジクムが設立された。だが1773年になり、ヨーゼフ二世の命でイエズス会が解散させられると、音楽の主流は貴族お抱え楽団に移り、地方から出てきた民衆が新鮮で活気に満ちた世俗的な歌を都会にもたらす。当時の合唱曲の中では、リバの「クリスマス・ミサ」が光っている。
 19世紀半ばに興ったチェコ民族復興運動の一環として、チェラコフスキー、スシル、エルベンらが民謡集を発刊した。これをもとに民謡を編曲し、合唱団を結成したクシーシコフシキーは、キュリロスとメトデウスのモラヴィア布教1000周年を記念して、1861年にブルノで催された式典を指揮し、この二人の聖人を称える曲を書いた。トマーシェク、ヴァシャーク、マルチノフスキー、シュクロウブ、ファイト、トヴァチョフスキーらも合唱曲を書いている。
 1861年に結成された男声合唱団フラホル(響きの意、18年後に混声)のために、スメタナは無伴奏男声合唱曲をはじめ多くの合唱曲を書き、これにならって各地に合唱団が出来た。こうしてドヴォルジャークの無伴奏男声合唱曲「自然の中で」、フイビヒの「春のロマンス」、ヤナーチェクの「ベズルチの詩による合唱曲」、J・B・フェルステルの「子供のための合唱曲集」、V・ノヴァークの「6つの無伴奏男声合唱曲」、スークの「10の女声合唱曲」、クシチカのカンタータ「砂漠での誘惑」などが、次々と生み出されていった。
 20世紀に入り、1903年結成のヴァッハ率いるモラヴィア教員合唱団にならい、ボヘミア、モラヴィアの各地に同様の合唱団が創られた。1930年代にはチェコ・マドリガル、チェコ放送所属のキューン児童合唱団などが結成され、カラプールの「子守歌」(無伴奏女声)、マルチヌーの「チェコの韻ふみ歌」、イェジェクの「4の児童合唱曲」、ハーバの「3つの混声合唱曲」、シュルホフのカンタータ「共産党宣言」、ウルマンの「13の無伴奏合唱曲」、ハースの「男声合唱曲 作品29」、クラインの混声合唱曲「乾杯」、トロヤンの児童合唱曲「さあ歌おう」などの名曲が生まれた。
 第2次世界大戦後の1950年には、国内の合唱団は約200を数え、ヴェセルカやマートル指揮のプラハ・フィル合唱団など、各オーケストラやオペラ劇場所属の合唱団以外に、プラハにキューン混声合唱団、ヴェンホダ率いる「スコラ・カントルム」をはじめ「イウヴェントゥス・ペダゴギカ」、ブルノに「カンティレーナ」、「ラドスト」「モラヴァン」「フェルデス男声合唱団」、児童合唱団にはプラハに「ハンビーニ・ディ・プラーガ」、リベレツに「セヴェラーチェク」などができた。
20世紀の後半の代表的な合唱曲としては、スラヴィツキーの「詩篇」、ハヌシュの女声合唱曲「マミンカ」、パウエルの無伴奏混声合唱曲「ミケランジェロの詩による4つのマドリガル」、ヤン・ノヴァークの「遺言詩」、フルニークの「泉、泉よ」、マーハの「ラシュスコ地方のヨーデル」、シェスタークの「3つの女声合唱曲」、ハヴェルカのカンタータ「光の賛歌」、コルテの「吟遊詩人の歌」、ルカーシの女声合唱曲「何ときれいに歌うこと」、エベンの「若い大地」、ライフルの「愉快なミニ動物園」、コペレントの「たいわいない歌」、フィシェルの「レクイエム」、ジェズニーチェクの「原子の平和利用への賛歌」、ザーメチニクの「歌の国を作ろう」、トゥリの「スターバト・マーテル」、クルツの「空飛ぶじゅうたん」などがあげられる。

(日本マルチヌー協会会長・日本ヤナーチェク協会顧問 関根 日出男)