第17回定期演奏会


プログラムノート


アマデウス音楽研究所 熊谷 聡

 今、我々の暮らす日本という国の、なんと平和なことだろう…。茶の間では、海外の絶えざる紛争やテロの映像がテレビに映し出される。景気がどうだとか、政治家がどうしたとかいっても、世界に目を向ければ明日の自分の命さえ保証の限りではない人々も確かにいるのだ。
 我々日本人は無論、世界中の誰もが平和を願っている。人々が愛とか平和とかを求める気持ちは、時代や国を超えた普遍的な想いに違いない。その想いが叶うようにと人々は祈る。人類の歴史以来どれほどの切実な“祈り”が捧げられたことだろう。その祈りを、詩人は言葉に託し、音楽家は美しい音の連なりに託した。バッハが、このミサ曲に託したのは、そんな祈りに違いない。時間や空間を越えて人類全てが平安であるようにとの祈り。

 バッハの音楽は、常に冷静で、完全で、どこか近寄りがたいもの‥とのイメージがある。確かにその完璧な職人技には隙が無い。しかし、決してそれだけではない。職人技といわれるものは何でもそうなのだろうが、技の根底にある感性とか精神的な深みがあってこそのものなのだ。ミサ曲というのはその詞句のもつ内容に音楽が奉仕する形で作曲されるが、この「ロ短調ミサ」においてバッハの祈りは、詞句と音楽の融合として見事に結実しているだけでなく、むしろ詞句を越えての想いが伝わって来る。そして、彼の音楽的表現は決して冷静なだけではない。多彩であり、あまりに美しい旋律をもってして、彼は充分にロマンティストであったともいえよう。
 更に気づくべきは、その詞句の持つ内容が現代の我々にとって、決して過去のものではない点だ。そこにある“祈り”は、今の我々の祈りでもあるのだ。我々一人一人の個人的な祈りであり、全世界に向けられた祈りなのだ。それは、この曲の最後の詞句に象徴的に表れている。“(全世界の)人々が平和でありますように”と。

 「ロ短調ミサ」は、ミサ曲としては、ベートーヴェンのミサ・ソレムニスに匹敵する大作であり、バッハの作品としても「マタイ受難曲」と並ぶ、重要作品である。そして、何かと研究者の議論の多いことでも知られる。その一つは、この曲の成立に関してのことだ。
 バッハの自筆スコアを見ると、この曲は別々の四つの部分から成るものを一つにまとめた形をとっており、それぞれに成立の事情も時期も異っている。そのようなことから、ある研究者などは、バッハがその四つの部分の統一的意味を考えていたか、つまり、「ロ短調ミサ」という曲そのものの存在についてさえ疑問だとしている。今日では、その説は極端とするのが一般的だが、ともあれこの曲の成立事情は複雑であり、完成したのも最初に曲の一部が書かれてから20年以上もたってからであった。
 また、この曲の宗教的位置についてだが、バッハはプロテスタントなので、ミサ曲を書くにしてもその書法にのっとって作曲したはずである。しかし、この曲は全体でカトリックのミサ曲の様相を呈している。ならば、これはカトリックのミサ曲かというと、そうでもない。カトリックのミサ曲は五つの章から成るのに、この曲では全体を四つの部分に分け、キリエとグローリアを一つの部分としたり、サンクトゥスを独立させたりしている。これは、成立の事情にもよるが、明らかにプロテスタント的である。それらの問題について結論は出ていないが、おそらく、バッハはこの曲を汎キリスト教的な、教派を超えた大作として考えていたのではあるまいか。それは、この曲が彼の最晩年に完成されたこと、実用的な価値(演奏)を意識していなかったことなどからも察することができる。彼は極めて精神的に高い次元でこの曲を完成させたのであろう。天にあるあの方と、そして地にある善き人々のことを想い。

Ⅰ.ミ サ

 プロテスタントでは、キリエとグローリアの2曲を《ミサ》と題して作曲する。「ロ短調ミサ」の第1部はこの書法によるもので、本来は1733年に献呈のために作曲された曲である。バッハが、プロテスタントの書法で作曲したミサの中で、最大の規模をもっており、後に、バッハはこの部分を拡大して「ロ短調ミサ」として完成させることとなる。

■第1曲《Kyrie eleison》 ロ短調 4/4
 冒頭『主よ憐れみたまえ』と、神への慈悲を求めるその悲痛な叫びは、切実で真摯である。祈りとは、時に厳しいものなのだ。曲は、ただ一つの詩句を繰り返しながら高揚し、聴く者をしてこのミサ曲の壮大な展開を予感させる。その後、器楽間奏によりフーガ主題が提示され、それは合唱へと受け継がれる。更にもう一度間奏をへて、五声のフーガは徐々に頂点へと進む。
■第2曲《Christe eleison》 二長調 4/4
 三位一体の第二者、キリストへの祈りであるこの曲は、バイオリンの助奏により美しく飾られたソプラノの二重唱で歌われる。前後の荘重なキリエと比べると、その祈りはむしろ個人的で、イエスその人への信頼と切々たる想いとが感じられる。
■第3曲《Kyrie eleison》 嬰へ短調 4/2
 第1曲のキリエでは器楽的なものが前面に表れて音楽も壮大であったのに対し、この曲は合唱が主体となり、楽器は歌の旋律を補助するだけになる。どこか古雅な、おごそかな味わいを持った旋律は、半音進行を多用した四声のフーガを形作る。
■第4曲《Gloria in excelsis 》 二長調 3/8
 グローリアは“栄光”の意。ここでは、二長調の明るさが曲を性格づけ、輝やかしく鳴り響くトランペットを含む管弦楽が、歓喜に満ちた音楽を奏でる。そして、そのテーマを合唱が受け継ぎ、模倣風に歌って喜びを高める。
■第5曲《Et in terra pax》 ト長調 4/4
前曲から続いたまま、おもむろに拍子は4/4に変り、穏やかな曲想となる。その対比は天と地を象徴しており、天の栄光と地の平安を表現したものだ。その後、短い間奏に導かれて、美しくも敬虔なフーガ主題がソプラノによって歌い出される。軽やかに、また、しとやかに…。
■第6曲《Laudamus te》 イ長調 4/4
 この、第2ソプラノによるアリアは、バロック風の明るさをもつ装飾豊かな曲で、協奏的に奏でるソロバイオリンとソプラノが、競い合って神への賛美の気持ちを高める。
■第7曲《Gratias agimus tibi》 二長調 4/2
 教会旋法を想わせる、古風でいて荘重な2つの主題による四声合唱が、神への感謝を歌う。後半でトランペットが加わり、徐々に頂点へと向かうその効果は感動的である。
■第8曲《Domine Deus》 ト長調 4/4
 フルートの助奏と弦の伴奏による、第1ソプラノとテノールの二重唱である。その二つの声は「父なる神」と「ひとり子なるキリスト」の二者を象徴している。そして、この二つの声は同時に進み、則ち、父と子の一体性を語る。ロ短調ミサでは、いくつかの楽器がソロの妙技を披露するが、ここのフルートもその一つで、実に美しい。曲は最後にロ短調に転調し、第9曲へそのまま続く。
■第9曲《Qui tollis peccata mundi》 ロ短調 3/4
 我々の罪をあがなって十字架にかけられたキリストへの切々たる祈りで、つつましく、しめやかに歌われる。ときおり長調に転じ、穏やかな気分になる。終止の和音も長調である。また、この曲がグローリアにおけるシンメトリー構造の中心となっていることも忘れてはならない。
■第10曲《Qui sedes》 ロ短調 6/8
 オーボエ・ダモーレの音色は、甘美にして切なげであり、それに支えられ、アルトが美しくも優しく歌う。また、この曲はバッハ自身が最も細かく強弱を指示している曲でもある。
■第11曲《Quoniam tu solus sanctus》 二長調 3/4
 ホルンと2本のファゴットに通奏低音という特異な編成によるバスのアリアで、ロ短調ミサ全曲中で唯一ホルンが登場する曲で、その活躍をじっくりと聴きたい。最後は属和音を準備して、そのまま次の曲へ入る。
■第12曲《Cum Sancto Spiritu》 二長調 3/4
 グローリアの最後にあたるこの曲は、多彩な主題とその展開の効果により、息つく間もあたえずに繰り出される音楽で、密度の高い曲となっている。和声的な部分と対位法的な部分が音楽の中で絡み合い、徐々に緊迫感を高め、神の栄光を高める。トランペットの音域の高さは特筆すべきものであろう。


Ⅱ.ニケーア信経

 プロテスタントでは、グレードを“ニケーア信経”と称する。この部分はグローリアと共に形式や秩序に関して細心の配慮が為されており、完成度の高い内容である。特に、そのシンメトリー構造には注目すべきだろう。また、昔楽も詞句にあわせて多彩で、表現は巧みである。
 また、第1部の「ミサ」の後、バッハがクレードの作曲(つまり“ロ短調ミサ”の作曲)に取り掛かるまでに14年の年月が過ぎたことも付け加えておきたい。

■第13曲《Credo in unum Deum》 イ長調 4/2
 “我、唯一の神を信ず”との詞句と、通奏低音の四分音符による一貫した歩みが、信仰のゆるぎなさを表す。その旋律は、グレゴリオ聖歌に由来しており、クレードの序にふさわしい力強い曲となっている。
■第14曲《Patrem omnipotentem》 二長調 2/2
 四声合唱の上三声が、前曲と同じ詞句による主題を歌い、それに対してバスは力強い新しい主題を歌う。それらは模倣的にからみあい、フル・オーケストラと共に、全能の父なる主を讃える。前曲に比べて、輝かしさと喜ばしさの感じられる曲想だ。
■第15曲《Et in unum Dominum》 ト長調 4/4
 詞句の内容から、音楽的処理は第8曲に通じるものがある。やはり“父なる神”と“ひとり子なるキリスト”の二者を象徴するソプラノとアルトの二重唱が、カノン風に歌う。
■第16曲《Et incarnatus est》 ロ短調 3/4
 この曲は、クレード全体のシンメトリー構造のために、後から追加作曲された曲。短いが、静かに息をひそめて歌われる合唱は神秘に満ちている。そして、ユニゾンのバイオリンは、処女マリアの上にある聖霊のごとく空を舞う。
■第17曲《Crucifixus》 ホ短調 3/2
 全曲の中でも特に表現が巧みであり、シンメトリー構造の中心を成す。半音階で下降する低音の足取り(いわゆる“嘆きのバス”)が、十字架を背負ってゴルゴダの丘への道をたどるキリストの歩みを悲痛な響きで私たちに伝える。その最後に見られるト長調への転調の効果は絶妙と言わねばなるまい。
■第18曲《Et resurrexit》 二長調 3/4
 復活の喜びが高らかに鳴り響き、その明るく力強い音楽は、前曲と全く対照的だ。器楽合奏と合唱が交互に現れ、中間部ではバスのパート・ソロなどもあり、最後には高らかなトランペットの響きが聞こえてくる。器楽的性格が顕著な曲でもある。
■第19曲《Et in Spiritum Sanctum Dominum》 イ長調 6/8
 二本のオーボエ・ダモーレが活躍するバリトンのアリアで、軽く落ちついた性格の曲となっている。そこで歌われるのは、三位一体の第三者“聖霊”と“普遍なる教会(エクレシア)”である。
■第20曲《Confiteor》 嬰へ短調 2/2
 通奏低音の伴奏による五声部合唱は、初めの主題とテノールにより歌い出される主題によりダブル・フーガを形作る。そして、グレゴリオ聖歌の旋律も現れ、古風な曲想が展開される。「Et expecto」の部分からはテンポを落とし、次の曲へ至るための転調が穏やかな音楽で重ねられていく。
■第21曲《Et expecto》 二長調 2/2
 そして、音楽はトランペットやティンパニーが華々しい、クレードの終曲へと切れ目なく受け継がれる。確信に満ち、力強く歌われる合唱は壮大であり、クレードの最後を飾るにふさわしい。


Ⅲ.サンクトウゥス

  バッハは、ロ短調ミサを完成させるにあたり、サンクトゥスについては新たに作曲せず、以前に書いたものに手を加えて転用している。これは、1742年のクリスマスのために作曲されたもので、バッハの作ったサンクトゥスとしては最も規模の大きなものであった。

■第22曲《Sanctus》 二長調 4/4
 三つに分れたオーケストラと、同じく三つに分れた六声部合唱が“サンクトゥス”という言葉を三連符で三回歌い出して、この曲は始まる。バッハは、この曲のいたる所に三という数−その数は、キリスト教において重要な意味を持つ−を象徴的に用いている。音楽は、おおらかで壮大な神への賛美となっている。「Pleni sunt coeli」からは3/8拍子のフーガに変わり、軽やかな曲想となる。また、詞句の一部がカトリックの典礼文と違う点も付け加えておこう。


Ⅳ.オザンナ以下

 第7曲の、終曲への転用に必然性が乏しいことなどを含めて、この第四部には、ロ短調ミサ完成に対するバッハの“あせり”が感じられる。確かに、彼はあせるべきだったのかも知れない。
 ロ短調ミサが最終的に完成を見たのは1749年、彼が世を去るわずか一年前のことであった。

■第23曲《Osanna in excelsis》 二長調 3/8
 ここで、合唱はダブル・コーラス(四声部×2)となる。そして、その二つの合唱は、多彩で歓喜に満ちた表現を聴かせてくれる。この曲も以前作曲したものの転用であるが、サンクトゥスとスムーズにつながるように、手を加えてある。
■第24曲《Benedictus》 ロ短調 3/4
 通奏低音とフルートの前奏に導かれて、テノールがキリストの至福を願って歌う、穏やかにして感情細やかな曲である。この後、前曲の“オザンナ”がそのままくり返される。
■第25曲《Agnus Dei》 ト長調 4/4
 “神の小羊”則ち、キリストへの祈りであるこの曲は、極めて主観的な表現による“祈る側”の音楽となっている。この、通奏低音とバイオリンの助奏によるアルトのアリアは、なんと切々たる感傷をうったえかけてくることだろうか‥。
■第26曲《Dona nobis pacem》 二長調 4/2
 音楽は、第7曲のものがそのままくり返され、穏やかな気持ちのうちに、地上の平和を願いつつ全曲はここに閉じられる。ミサ曲の終曲に以前の曲をくり返す手法は、モーツァルトのレクイエムなどにも見られるこの時代の一般的なものである。しかし、聴く者にとって、その音楽は決して前と同じではない。すべてを終える今、その音楽は我々の心に、別の深い感動をもって届けられるはずである。